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第8回 京都紅葉紀行──光に浮かぶ、あわいの色を求めて

  • Writer: T. OSUMI
    T. OSUMI
  • 3 days ago
  • 7 min read

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沖縄に移住して二十八年。常夏の島で暮らす私には、どうしても恋しくなる季節がある。春のソメイヨシノと、秋の紅葉だ。今年の秋は黒部立山の室堂を皮切りに、北海道の定山渓と洞爺湖、岩手県の中尊寺や小岩井農場などの紅葉を楽しんだ。


締めくくりに飛んだのが毎年のようにでかけている12月の京都。目的はただひとつ──光に浮かぶ夜の紅葉と、緑から赤へと移ろう「あわい」の色と再会することだ。


定年退職後も、在職中と変わらぬ気ままな一人旅。西洞院にホテルを取り、今年最後の紅葉狩りへと繰り出した。


鏡面の世界──東寺の夜

初日の夜、まずは東寺のライトアップへと向かった。

拝観料千円を納め、正門から左手へ折れた瞬間、息が止まった。瓢箪池の水面が巨大な黒い鏡となり、ライトアップされた木々を鮮烈に映し出している。周囲からは「ほうっ」という感嘆の声と共に、一斉にスマートフォンを構える。


少し歩を進めると、今度は国宝・五重塔が黄金色に輝き、紅葉との見事な競演を水面に落としていた。高さ五十五メートルもの木造塔が、逆さまになって池に映り込む様は、まさに京都の秋の極致だ。


特に心惹かれるのは、単に燃えるような赤ではない。緑から黄色、そして朱へと移ろう、一本の木の中に宿る「色のあわい」である。東寺の木々は、まさにその色彩の調和が見事だった。境内の約二百本の紅葉が、それぞれに異なる色の段階を見せながら、闇夜に浮かび上がっている。


ちょうど秋季特別公開が行われている金堂と講堂へも足を運んだ。ここからは撮影禁止の聖域だ。立体曼荼羅の重厚な仏像群と対峙し、その荘厳さをじっくりと網膜に焼き付ける。スマホの画面越しではない、心での対話。これこそが、歴史ある京都の旅の作法だろう。


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喧騒を抜けて──清水の「あの一本」へ

翌朝は、この時期にしてはダウンジャケットがいらないほどの暖かい日和となった。

地下鉄四条駅で一日乗車券を購入し、意気揚々とバス停へ向かう。しかし、ここで現実に引き戻された。通勤ラッシュを避けたつもりだったが、207系統のバスは観光客で寿司詰め状態。ニュースで耳にする「オーバーツーリズム」の波に揉まれながら、揺られること数十分。ようやく清水坂で解放された。


清水寺へと続く参道は、テレビニュースで観た以上に立錐の余地もないほどの人波だ。しかし、私にはどうしても会いたい「木」がある。


茶わん坂を上り切った、最後の階段付近に佇むあの一本。今年も期待を裏切ることなく、緑と赤の絶妙な錦を纏い、私を迎えてくれた。葉先から徐々に赤く染まり、幹に近い部分はまだ深い緑を残している。その色の重なりが、まるで水彩画の滲みのように美しい。


清水の舞台からの絶景や、錦雲渓の紅葉のトンネルももちろん素晴らしい。しかし私にとっては、この一本の木の「色のあわい」こそが、京都の秋の象徴なのだ。


高台寺──木枠で切り取る一幅の絵

二年坂を下り、高台寺へと向かう頃には日は傾き始めていた。

ここにも、私が愛してやまない木がある。中門をくぐってすぐ左手、その木はライトアップの妙も相まって、妖艶なほどの美しさを放っていた。


暗闇を背景に、ライトの光を透かした葉は、まるで発光しているかのようだ。赤からオレンジ、そして深い緑へ。枝先が重たげに垂れ下がり、私の目の前まで極彩色のカーテンを降ろしてくれている。

ライトアップされた紅葉は、ただ美しいだけではない。昼間の喧騒から解放され、静寂の中でこそ見える「儚さ」がある。光に浮かび上がる一枚一枚の葉は、今この瞬間だけが永遠であるかのように輝き、やがて闇に溶けていく。そのはかなさが、日本人の美意識そのものだ。


ふと、古い建物の木枠越しに庭園を眺めてみた。黒い柱と梁が額縁となり、その向こうにある紅葉を切り取る。これぞまさに一幅の絵画。もともと設計者がこの構図を狙っていたかどうかは定かでないが、京都ならではの日本建築と自然の調和に、思わずシャッターを切った。


名勝・臥龍池の水面に逆さに映る紅葉は、吸い込まれそうなほど幽玄である。高台寺では約千本のモミジが植えられており、池に映る姿は「逆さ紅葉」として人気の撮影スポットだ。

順路を進みフィナーレを飾るのは見事な竹林である。


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竹林の静寂

紅葉の情熱的な色彩とは対照的に、天に向かって真っすぐに伸びる無数の竹。下からライトアップされたその姿は、まるで黄金の光の柱が林立しているようだ。風が吹くたびに笹がサラサラと鳴る音だけが響く。


紅葉の「動」と竹林の「静」。このコントラストこそが高台寺の真骨頂かもしれない。


高台寺を後にし、台所坂を下る。歴史の重みを感じる石畳の小路を抜け、八坂神社へと出る頃には、すっかり夜も更けていた。


この季節、京都を訪れるなら、ぜひ夜の帳が下りる頃に寺社の門をくぐってみてほしい。昼の紅葉が「眺める」ものなら、夜の紅葉は「浴する」もの。全身でその美しさに浸る瞬間が、きっと忘れられない旅の記憶になるだろう。


さて、帰沖のため空港に向かうこの瞬間から来年の紅葉巡礼が楽しみになっている。


(注)2025年を締めくくる12月の京都。京都にはほぼ毎年、ソメイヨシノの花びらが散るころと紅葉のライトアップの時期に来ています。


初日の夜に訪問した東寺、二日目に足を運んだ清水寺、高台寺、八坂神社などについてのメモ書きをまずは進化したGeminiの思考モードで読み解いてもらい、旅行エッセイとしてまとめてもらいました。


その後、撮影したライトアップの写真も読み込ませ、紅葉のグラデーションの詳細な説明を出力した後、Claudeに全体をまとめてもらいました。最初はグラデーションという用語を使っていたのですが、情緒あふれる京都の紅葉を表すにふさわしい日本語を探してもらった結果、グラデーションではなく「あわい」の色*という表現に落ち着いています。最後に、適宜、GeminiとGrokで細かい表現を詰めて加除訂正したものが今回の内容です。


WIXは無料版を利用しているのでそろそろ写真のストレージがいっぱいになりつつあります。そこで、ファイルサイズを小さくするために、コラージュを作成したうえでUPしています。


*Copilotに「「あわい」の色という表現を、紅葉を例として挙げ、わかりやすく説明してください。できるだけ日本の古典や和歌なども例としてとりあげてください」、とお願いしたら次のような回答がかえってきました。(Think deeperモード)


「あわい」の色の意味と感覚

「あわい」は「間(あいだ)」や「境目」を指し、色に用いると、はっきりと定まった色そのものではなく、二つの色や光と影が溶け合って移ろう“中間のニュアンス”を表します。紅葉でいえば、緑から黄、橙、朱、紅へと変わる連続の中で生まれる、名づけにくい微妙な色味や、朝夕の光で柔らかくゆらぐ色合いが「あわい」です。


紅葉で捉える「あわい」の色

  • 移ろいの途中にある色: 緑が残る葉の縁が黄に透け、中心が橙に満ち、光に当たると朱がかる。どれか一色ではなく、その“間”で揺れる色こそ「あわい」。

  • 光と影の交差: 朝霧や夕映えで紅葉が淡く染まり、影に入ると褪せる。そのわずかな差がつくる色の境目が「あわい」。

  • 遠景の重なり: 谷や山肌を染める紅葉は、近景の濃赤と遠景のくぐもった黄褐が重なって見える。この重なりの中間に浮かぶニュアンスが「あわい」。


和色名が伝える「あわい」のまなざし

平安以来、日本では季節の移ろいを和の色名で細やかに言い分けてきました。紅葉の「紅(べに)」だけでなく、夕暮れの「朱(あけ)」や散りゆく「枯葉色」など、情感を含んだ名が、単純な赤ではなく連続する色の間を見抜く視線を育てています。


さらに紅葉の歌から拾う「あわい」の手触り

• 遠景の濃淡: 「くれなゐの濃染のもみぢ遠くより…いま近づきぬ」—近づくほど色が変わって見える距離の“間”。

• 水面の揺らぎ: 「もみぢ葉ちりてうづまき流る」—水に溶ける葉色の揺れがつくる“間”。

• 月光の透過: 「もみぢ葉に月のひかりをさしそへて」—夜の光で赤地が錆びるように変わる“間”。


こうしたモチーフは、固定された色ではなく、時間・距離・光の条件が織りなす中間のニュアンスを歌に定着させています。


まとめ

「あわい」の色は、完成された“赤”ではなく、赤へ至る過程と赤から離れる余韻の中に生まれる色です。紅葉は、その移ろい・重なり・透け—三つの条件で「あわい」を可視化します。あなたの目に映る“どの色でもない”瞬間を、古典は露や錦、風や月のことばで掬いあげてきたのです。

 
 
 

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