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第12回 インタビュー連載:京都紅葉編

  • Writer: T. OSUMI
    T. OSUMI
  • Dec 13
  • 5 min read

Updated: Dec 14

「あわい」に揺らぐ、命の色彩を求めて —— 古都・京都の紅葉が教えるもの


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記者:沖縄での生活はもう28年になると伺いました。先生のSNSを拝見していると、このゆったりとした島の時間は本当に肌に合っていらっしゃるようですね。


先生:ええ、大好きですよ。長い夏。どこまでも続く青い海。あのオレンジ色に染まるサンセットは見飽きることがありません。沖縄のリズムは、長年こわばっていた私の心をずいぶんと解きほぐしてくれました。……ですが、それでもやはり、私の奥底にある何かが、年に二度だけ騒ぎ出すんです。「戻っておいで」と、かつていた世界が私を呼ぶ声が聞こえる。それが、春の桜と、秋の紅葉の季節です。


記者:それが今回の京都への旅につながるわけですね。先生が先日、海外の旅行雑誌に寄稿されたエッセイ『Chasing the Colors Between(あわいの色を追いかけて)』を拝読しました。特に今年の京都、東寺から始まり、清水寺、そして高台寺へと続く巡礼のような旅路が印象的でした。今年の紅葉、いかがでしたか?


先生:(ふと視線を外し、窓の外の遠い一点を見つめるような目をして)

……そうですね。言葉にするのは難しいのですが、単なる「綺麗だった」という感想とは少し違う。70歳という年齢の足音が聞こえてくる今だからこそ見えた景色がありました。


記者:エッセイの中で、先生は「真っ赤な紅葉」そのものではなく、ある特定の木について触れられていましたね。


先生:ええ。これを見ていただけますか。


先生:これは清水寺の茶わん坂を上ったところにある楓の木です。私が毎年必ず会いに行く「古くからの友人」です。多くの人は、燃えるような真紅の葉を求めてカメラを向けます。もちろんそれも美しい。けれど、私の心を震わせるのはそこではないんです。


記者:この写真……一本の木の中に、驚くほど多くの色が存在していますね。


先生:そう、それなんです。緑から黄色へ、琥珀色へ、そして朱色へ。一つの木の中に、春の残り香と、冬への予感が同時に存在している。私はこの「あわい(間)」にどうしようもなく惹かれるのです。


記者:「あわい」、ですか。


先生:ええ。日本語には「あわい」という美しい言葉があります。ふたつのものの間、境界線でありながら、それ自体が一つの豊かな空間である場所。この木を見てください。完全に緑でもなく、完全に赤でもない。その変化の途中にあるグラデーションこそが、命そのもののように思えるのです。


若い頃は、結果ばかりを急いでいました。白か黒か、成功か失敗か。でも今は、この「定まらない色」の美しさが痛いほど分かる。私たち人間も同じでしょう? 過去の自分と、なりゆく未来の自分の間で、常に揺れ動いている。


記者:エッセイの中で書かれていた東寺の「鏡の世界」も、その揺らぎの一つでしょうか。


先生:東寺の瓢箪池(ひょうたんいけ)ですね。風が止まった瞬間、巨大な黒い鏡が現れ、五重塔が地下の世界へと伸びていく。ライトアップされた金色の塔と、闇の中に沈む塔。現実と虚構が曖昧になる瞬間です。


そこでもやはり、私の目を引いたのは完全な赤に染まりきっていない楓たちでした。暗闇の中で、緑と赤がせめぎ合っている。その「迷い」のような色彩が、五重塔の圧倒的な存在感の前で、とても人間らしく、愛おしく感じられたのです。


記者:高台寺での体験についても、「静寂」という言葉を使われていましたね。


先生:高台寺のライトアップは現代的なプロジェクションマッピングなどもあって華やかですが、私が求めていたのはその奥にある静けさでした。


燃えるような紅葉の色彩の洪水を抜けた先に、この竹林がありました。光を受けて黄金の柱のように輝く竹たち。風が吹くと、葉擦れの音が聞こえる。沖縄のざわわと揺れるサトウキビとも違う、どこか懐かしい、凛とした音。


そこには「動」と「静」のあわいがありました。熱狂的な色彩の世界と、永遠に続くかのような静寂の世界。その中間に立ち尽くしていると、自分が「教授」であった過去や、沖縄でののんびりした生活、それら全ての境界線が溶けていくような感覚に陥りました。


記者:写真を撮ろうとしていた若い女性のエピソードがエッセイにありましたが、先生にとって、これらの景色を「記録」することはどのような意味を持つのでしょうか。


先生:(穏やかに微笑んで)その女性は「カメラじゃ全部の色を捉えきれない」と嘆いていました。でも、それは当然なんです。なぜなら、この色彩は「状態」ではなく「プロセス」だからです。


私が撮ったこの写真たちも、あの日、あの瞬間の「あわい」を切り取ったに過ぎません。本当の色は、カメラのレンズを通り抜けてしまう。だからこそ、私たちはその場に行って、自分の頼りない目で目撃しなければならない。「見届ける」と言ったほうが正しいかもしれませんね。


記者:見届ける、ですか。


先生:ええ。木々が緑を手放し、燃え上がり、やがて葉を落とす。それは喪失ではなく、美しい変容です。


私ももう還暦をとうに過ぎ、70代の足音がヒタヒタと近づいています。人生の秋、と言われる時期かもしれません。でも、この京都の「あわい」の色を見ていると、老いること、変化することは、決して恐れることではないと教えられます。


完全に赤く染まりきる前の、あの名状しがたい複雑な色。あの色の中にこそ、人生の最も豊潤な時間が隠されているのではないか……今年の京都で、私はそんなことを考えていました。


記者:来年もまた、あの「友人」である木に会いに行かれますか?


先生:膝が許してくれるなら、ええ、必ず(笑)。


沖縄の永遠の夏も素晴らしいですが、私はやはり、移ろいゆく時の儚さを確かめに、あの坂道を登るのでしょうね。カメラには写らない色を、この目に焼き付けるために。

 
 
 

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