第1回「あめゆじゅ」を求めて――いのち生ききる
- T. OSUMI

- Nov 2
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Updated: 22 hours ago

もしあなたが今日死期を悟り誰かに人生最後の頼みをするとしたら、その言葉にはどんな想いを込めるでしょうか。今回参加した死の臨床研究会はまさに魂からふり絞られる最後の言葉の奥底に眼差しを向ける内容でした。
2025年11月1日・2日、宮澤賢治生誕の地・岩手県盛岡市で開催された第48回日本死の臨床研究会年次大会のテーマは、「“あめゆじゅ”を求め、向き合い、そして支える」でした。この不思議な響きを持つ言葉――「あめゆじゅ」は、賢治の妹トシが死の床で兄に繰り返し頼んだ、「雨雪(みぞれ)をとってきてください」という岩手の方言です。
最後の願いに込められた、本当の意味
賢治は詩『永訣の朝』で、この言葉をこう受け止めています。
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
妹は本当に喉の渇きを癒したかっただけなのでしょうか。それとも――。大会長を務めた岩手医科大学の木村祐輔先生は、このような問いを投げかけています。トシの願いは、兄が自分の死後も前を向いて生きていけるようにという、最後の贈り物だったのではないか、と。
自分が死ぬ瞬間にさえ、残される者のことを想う。そんな人間の切ないくらいの優しさが、たった一杯の雪水に凝縮されています。
氷水のコップに込められた、父娘の対話
共同大会長の岩手県立大学・高屋敷麻理子先生も、父の看取りの経験を語ってくださいました。病気で様々な制限を受けていた父が唯一好んだのが、氷にほんの少しだけ水を注いだ氷水。やがて自分では飲めなくなった父に、麻理子先生がコップを手渡すと、普段は無言だった父が小さく「ありがとう」と微笑んだそうです。
言葉はなくとも、その氷水のコップには、感謝も、別れも、赦しも、すべてが溶け込んでいました。それはまさに、父娘の間の”あめゆじゅ”だったのです。
医療の現場では、痛みを取り除く薬は日々進化しています。しかし、本当に患者さんが求めているものは、いつも「症状の向こう側」にあります。ある方は「大切な人に想いを託したい」と願い、ある方は「最後の瞬間まで自分らしく在りたい」と望みます。それは診療記録には書かれないかもしれませんが、確かに、そこに存在しているのです。
患者さんが教えてくれた、生きることの意味
特別講演で髙宮有介先生(昭和大学医学部医学教育学講座客員教授)が語った患者さんのエピソードには、何度も目頭が熱くなりました。
末期直腸がんの50代男性が、もう一度自分の経営するスナックで歌いたいと願いました。呼吸困難で酸素ボンベが必要な身体。二階の店まで自力で上がれない。すると髙宮先生は、彼をおぶって階段を上ったそうです。店に入る瞬間、患者さんは看護師さんたちに「ヨーー!」と声をかけ、得意の演歌を歌い切りました。
「呼吸困難があり、声を出すのがやっとの彼の歌声に、心が震えました」
これは医学的にはどう説明されるのでしょうか。脳内モルヒネ? アドレナリン? きっとそういう物質も関係しているのでしょう。でも本当は、もっとシンプルで、もっと深い何かが働いていたのではないでしょうか。人間には、夢を叶える瞬間、痛みさえも超えていく力がある――35年間の緩和ケアの現場で、髙宮先生はそれを何度も目撃してきたそうです。
そして、21歳で旅立ったバレーボール日本代表の横山友美佳さんの言葉。
「歩くこと、話すこと、見ること、聞こえること、喜ぶこと、悲しむこと、そして生きること。当然のようにできている人間は、何とも思わないけれど、これらは当たり前のことなんかじゃない」
今この文章を読んでいるあなた。目が見えて、文字が読めて、意味が理解できること。それって、実はものすごいことなんです。
沖縄に息づく、魂の文化
ところで沖縄には、「マブイ(魂)」という言葉が日常に溶け込んでいます。
沖縄の人は、びっくりした時や転んだ時、「マブイを落とした」と言います。魂が身体から抜け出してしまったのです。すると、その場で「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー(魂よ魂よ、戻っておいで)」と唱えながら、空中の空気を手ですくって胸に戻す仕草をします。これを「マブイグミ(魂組み)」と言います。
医学的には説明できないって? でも「心ここにあらず」という言葉は本土にもあります。PTSD、解離性障害、そういう診断名だってあります。魂が抜けた状態を、沖縄の人は何百年も前から知っていて、それを取り戻す方法まで持っているのです。
二つの文化が指し示す、同じ真実
岩手の「あめゆじゅ」と、沖縄の「マブイ」。
一見、全く異なる文化です。一方は詩人の悲しみの結晶で、もう一方は庶民の生活に根ざした民間信仰です。しかし、この二つが指し示しているのは、実は同じことではないでしょうか。
目に見えないものを、大切にすること。
魂の存在を、信じること。
そして何より――死を前にした時、人が本当に必要とするのは、高度な医療技術だけではなく、心と心が触れ合う瞬間なのだということ。
トシの「あめゆじゅ」は、ただの水ではありませんでした。父の氷水も、ただの氷ではありませんでした。スナックでの演歌も、ただの歌ではありませんでした。それらはすべて、「私はここにいる」「あなたと繋がっている」という魂の叫びでした。
そして、マブイグミもまた同じです。医学的には無意味かもしれません。でもそれは、「起きてしまったことに向き合おう」「失った何かを取り戻そう」という、心の儀式なのです。
これから日本が目指すべき「死の臨床」は、もしかしたら沖縄の暮らしの中にヒントがあるのかもしれません。最先端の医療設備と、古代から続く魂への信仰。その両方が手を取り合った時、本当の意味での「全人的ケア」が実現するのではないでしょうか。
最後に――あなた自身の「あめゆじゅ」は何ですか?
木村先生は言います。「誰にでも、その方だけの”あめゆじゅ”があります」
あなたがもし、今日が人生最後の日だと知ったら。大切な人に何を頼むでしょうか。何を伝えるでしょうか。そして、あなたの大切な人が旅立とうとしている時、その人の本当の願いに気づけるでしょうか。
この問いに、正解はありません。でも、この問いと向き合うことが、生きることの意味を教えてくれます。
トシが賢治に雪を頼んだように。
父が娘の一杯の氷水に「ありがとう」と言ったように。
患者さんがスナックで演歌を歌ったように。
私たちは、人生の最後の最後まで、誰かと繋がりたいと願っています。その願いを受け取ること、そして自分の願いを伝えること。それこそが、死の臨床が目指すべき場所なのかもしれません。
――あなたのマブイは、ちゃんと身体の中にありますか?
(注)今回の内容は、11月1・2日に盛岡で開催された第48回死の臨床研究会年次大会の講演会資料の一部を参考に、沖縄のマブイ文化との関連性に触れて、同研究会の広報につながるような記事を作成してほしいと生成型AIのClaudeに打ち込んだ結果です。出力された文章が長文だったため、私自身が実際に会場で感じた印象に近づくように適宜加除訂正しておきました。最初に出力された文章は、私の期待をはるかに超えた内容でした。
分科会では、緩和ケアやがんの終末期医療、ホスピスに携わる参加者たちがプレゼンテーションで示された高い理想と現実の狭間で苦悶している様子が伝わって来ました。ただ、悲愴感ではなく、少してもより良い医療や看護を実現したいという思いがひしひしと伝わってくる議論が交わされ、門外漢の私も感動してしまいました。もうこれは、天使や修行僧の領域と言っていいかもしれません。
講演会でも、死の臨床はナラティブで科学的なエビデンスに乏しいと批判されている現実が紹介されていましたが、科学で解明されている現象は世の中のほんの一握り。多くの人に、死の臨床に関わる人たちの静かなる情熱を知ってほしいと実感した研究会でした。
その一方で、他の人にこれだけのお世話を受けるのは申し訳ない気分でいっぱいになりそうなので、個人的にはケアや看取りに特化したフィジカルAIやヒューマノイド・ロボットの登場に期待しています。私自身、かつて入院時に下の世話をしてもらわざるを得なかった時、感謝よりも恥ずかしさの方が先に立ち、人間の尊厳を奪われるような感覚になった経験があります。
研究会の中で、「家族に迷惑をかけたくない」という言葉の奥底には、「本当は家族に面倒を見てもらいたい」という思いが隠されているかもしれない、という議論が何回かありましたが、おひとり様の私は心の底から技術的な解決を楽しみにしています。日本の産業ロボットやセンサー技術の進歩には著しいものがあるので、まずは人型ロボットにこだわらず、本人の尊厳を守る排泄支援ロボットの開発をお願いしたいところです。










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