第9回 Michiko & Yoichi meet Flying Professor Part Ⅱ
- T. OSUMI

- Dec 8
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Updated: Dec 12

4. 鷲の巣の村
「まるで迷路ね」美智子が言った。
路地は複雑に入り組み、上へ下へと続いている。どこを歩いても絵になる風景。石壁に絡まるブーゲンビリア。木製のドアに飾られた真鍮のノッカー。窓辺に置かれた素焼きの鉢。
「これ、本当に人が住んでるのかな」洋一が呟いた。
「住んでるみたいよ。ほら」
美智子が指差した先には、洗濯物が干されている窓があった。
路地を上っていくと、小さな広場に出た。中央に古い井戸がある。周りにはカフェとギャラリー。テーブルが二つ三つ、外に出されている。
「休憩する?」美智子が尋ねた。
「まだ早いだろう。頂上まで行ってみよう。村の最上部には、熱帯植物園があるらしい。オオスミさんのブログにも書いてあった」
さらに石段を上る。段差が高く、息が切れてくる。
「運動不足ね」美智子が笑った。
「お互い様だろう」
でも、登るにつれて、視界が開けていく。石壁の隙間から、地中海が見える。青い海。白い波。遠くに船。
やがて、植物園の入り口に辿り着いた。
入場料を払って中に入ると、別世界が広がっていた。
サボテン、アロエ、龍舌蘭。様々な多肉植物が、岩の間に植えられている。狭い路地を抜けると、突然視界が開ける。
「うわあっ!」
美智子が思わず声を上げた。
目の前には、地中海が広がっていた。
崖の上から見下ろす景色。眼下には、赤茶色の瓦屋根が幾重にも重なり、まるで鳥の羽根のように海へと流れ落ちている。屋根の一つ一つが、長い年月を経て色褪せ、独特の風合いを醸し出している。
その向こうには、紺碧の地中海。水平線まで続く青のグラデーション。海岸近くは明るいターコイズブルー、沖へ行くほど深い群青色に変わっていく。
「これは......すごいな」洋一も息を呑んだ。
フランス国旗が風になびいている。鮮やかな青、白、赤が、背景の海の青と対照をなして、まるで絵画のようだ。
石造りの古い建物。その屋根の上には、煙突が立ち並んでいる。壁は年月を経て色褪せ、ところどころ剥がれかけているが、それがかえって歴史の重みを感じさせる。
「海の青、すごいわね」美智子が欄干に手をかけて、身を乗り出した。
「気をつけろ」
「大丈夫よ」
展望台からは、左右に海岸線が見渡せた。右手にはモナコの高層ビル群が、白く輝いている。左手には、ニースの街並みが霞んで見える。そのずっと先には、山々が連なっている。
「あそこにヤシの木が見えるわ」美智子が下を指差した。
崖の斜面には、ヤシの木やリュウゼツランが植えられている。その緑が、赤茶色の屋根と青い海の間で、アクセントになっている。

洋一は海洋学者の目で、海を観察していた。
「波が穏やかだな」
「そうね」
「地中海は閉鎖海だから、太平洋みたいな大きな波は来ない。でも、風が強い日は、結構荒れるんだ」
「今日は凪ね」
「ああ。だから、あんなに青く見える」
遠くに、白いヨットが浮かんでいる。帆を立てて、ゆっくりと進んでいく。その後ろに、白い航跡が一筋、伸びている。
展望台には、数人の観光客がいるだけだった。みな黙って、海を見ている。カメラのシャッター音だけが、時々響く。
二人もベンチに座り、しばらく景色を眺めていた。
風が心地よい。植物の香りと、海の匂いが混ざっている。遠くでカモメが鳴いている。
「鷲の巣の村、って呼ばれてるんですって」美智子が案内板を読みながら言った。
「鷲の巣?」
「こうやって崖の上に作られた村のこと。敵から守るために、高い場所に作ったらしいわ」
「中世か」
「そう。十二世紀からあるんですって」
洋一は海を見ながら、考えていた。
八百年以上前。この場所に人々が住み、生活していた。海を見張り、敵の来襲に備えていた。今は観光地になっているが、かつては要塞だったのだ。
「あの屋根、全部赤茶色ね」美智子が言った。
「南フランスの特徴だな。素焼きの瓦。ローマ時代から使われてる」
「一つ一つ、微妙に色が違うわ」
「年月が経つと、焼けたり色褪せたりするからな。でも、それが味になってる」
石造りの壁。赤茶色の瓦屋根。青い海。白い帆。そして、フランス国旗の三色旗。
すべてが完璧に調和していた。
「あの海、見てると飽きないわね」美智子が言った。
「ああ」
「沖縄の海とも、昨日見たニースの海とも、また違う」
「高さが違うからな」洋一が答えた。「上から見下ろすと、海の色が違って見える。光の反射角度が変わるから」
「研究者モード?」
「いや」洋一が笑った。「ただの感想だ」
美智子は夫の横顔を見た。海を見る時の洋一は、いつも穏やかな表情をする。
「ねえ」
「ん?」
「ここに来て良かったわね」
「ああ。オオスミさん様様だな」
「グランビルアイランドから、ずいぶん遠くまで来たわね」
「三十年以上かかったけどな」
二人は笑った。
しばらく座っていると、観光客が増え始めた。団体客も到着し、展望台が賑やかになってくる。日本語、英語、中国語、様々な言語が飛び交う。
「そろそろ降りようか」美智子が言った。
「ああ。写真、撮っておくか」
洋一がスマートフォンを取り出し、海と屋根の風景を撮る。フランス国旗も入れて。
「私たちも撮ろう」
美智子が洋一の隣に立ち、自撮りで二人を撮影する。背景には、青い海と赤い屋根。
「いい写真ね」
「記念になるな」
植物園を出て、再び村の中へ。下りは楽だが、石畳が滑りやすい。
途中、小さなギャラリーに立ち寄った。地元の画家の作品が並んでいる。エズ村を描いた水彩画。地中海の風景。どれも美しいが、洋一の目が止まったのは、小さな陶器の置物だった。
青い鳥。
「これ、可愛いわね」美智子も気づいた。
「買うか?」
「いいの?」
「記念に」
美智子は店主に声をかけ、青い鳥を手に取った。手のひらに収まるサイズ。素朴な作りだが、温かみがある。
「これください」
包装してもらい、小さな紙袋を受け取る。
「ありがとう」美智子が洋一に言った。
「気に入った?」
「ええ。エズ村の記念になるわ。あの青い海を思い出せる」
村の入り口まで戻ると、もう観光客で溢れていた。さっきまでの静けさが嘘のよう。狭い路地に人が溢れ、写真を撮る人、お土産を買う人で賑わっている。
「オオスミさんの言う通りだったな」洋一が言った。「午前中がベストだ」
「本当ね。あの静けさの中で、あの景色を見られて良かったわ」
駐車場に戻り、車に乗り込む。時計を見ると、十一時半。
「モナコに行こう」
「お腹空いたけど」
「モナコで何か軽く食べよう。夕方、ヴィルフランシュでちゃんとした食事があるし」
「そうね」
エンジンをかける前に、洋一は振り返ってエズ村を見た。
崖の上に張り付くように広がる、赤茶色の屋根。その向こうに広がる青い海。
「また来たいな」と洋一が呟いた。
「ええ、また来ましょう。30年後ではなく・・」美智子が笑いながら答えた。
エズ村を後にして、再び海岸線の道へ。今度はさらに東へ、モナコを目指す。
右手の窓からは、さっき見下ろしていた地中海が、今度は同じ高さで広がっている。
青い海。赤い屋根。フランス国旗。
その景色が、二人の記憶に刻まれていった。

5. モナコ
エズ村から二十分ほど走ると、突然景色が変わった。
高層ビル。ヨットハーバー。整備された道路。
「モナコだ」
世界で二番目に小さい国。面積わずか二平方キロメートル。でも、そこには富と華やかさが凝縮されていた。
「すごい数のヨットね」美智子が港を見ながら言った。
巨大なクルーザーが何隻も停泊している。どれも億単位の値段だろう。白い船体が太陽に照らされて眩しい。デッキで日光浴をする人々。シャンパンを飲む姿。
「別世界だな」
駐車場はモナコの西側入り口にある観光客にやさしいと評判のレ・サリーヌ駐車場をナビに入れておいた。15階建て1,800台収容で、料金表には半日7.50ユーロ、一日11ユーロと書かれている。
「もっと高いかと思っていたら安いわね」美智子が駐車料金を見て言った。
「たしかに」
車を降りて、まずカジノ・ド・モンテカルロへ向かった。
カジノの前に出ると、洋一が思わず立ち止まった。
「すごい車だな」
真っ赤なフェラーリが停まっていた。オープンカー。ボンネットから漂う高級感。運転席には、サングラスをかけた男性が座っている。
「写真撮っていいですか?」美智子が囁いた。
「車だけなら」
美智子はさりげなく、赤いフェラーリを撮影した。
ベルエポック様式の豪華なカジノの建物。正面には噴水があり、庭園が美しく手入れされている。
「入れるの?」美智子が尋ねた。
「入場料を払えば見学できるはずだ」
でも、入り口で止められた。
「ドレスコードがございます」警備員が丁寧に言った。洋一のカジュアルな服装を見ている。
「そうですか」
「ロビーまではご覧いただけますが」
「ありがとうございます」
ロビーだけでも、その豪華さは十分に伝わってきた。シャンデリア、大理石の床、金箔の装飾。
「映画の世界みたい」美智子が囁いた。
「ジェームズ・ボンドが出てきそうだな」
ロビーを一周して外に出ると、さらに何台も高級車が停まっていた。銀色のランボルギーニ。黒いロールスロイス。
「これぞモナコって感じね」
港へ向かって歩く。道は綺麗に整備され、街路樹が並んでいる。すれ違う人々も、どこか華やかだ。ブランドのショッピングバッグを持つ女性たち。高級時計をつけた男性たち。
やがて、港が見えてきた。
「わあ」美智子が声を上げた。
Port Hercule。モナコの中心にある港。無数のヨットとクルーザーが、整然と並んでいる。白い船体が陽光を反射して、まるで宝石のように輝いている。
「あれ、何メートルあるんだろう」洋一が一隻の巨大なクルーザーを指差した。
「五十メートルくらい?」
「もっとあるな。七十メートルはありそうだ」
港の向こうには、高層ビルが立ち並んでいる。ベージュ色の建物、白い建物。山の斜面に張り付くように建てられている。その背後には、落ち着いた緑が映えるの山。
「お腹空いたわね」美智子が言った。
「そうだな。どこかで軽く」
港沿いのカフェを探して歩く。テラス席がいくつも出ている。どこも混んでいるが、一軒、空席を見つけた。
大きなパラソルの下、たくさんの人々が食事を楽しんでいる。家族連れ、カップル、友人同士。笑い声と話し声が混ざり合っている。
「ここにしましょう」
二人はテラス席に座った。目の前には港。ヨットが並び、その向こうに海が見える。
メニューを見ると、値段は思っていたよりずっと安い。
「サンドイッチとサラダでいいわ」美智子が言った。
「俺も同じで」
ウェイターに注文を済ませて、二人はヨットを眺めた。
「あの大きいの、いくらくらいかしら」美智子が指差した。
「何十億だろうな」
「想像もつかないわね」
「俺たちには縁のない世界だ」
でも、この港の雰囲気は悪くなかった。華やかだが、どこか陽気で開放的。人々は笑い、食事を楽しんでいる。
サンドイッチが運ばれてきた。シンプルなハムとチーズのサンドイッチで7ユーロ。お金持ちの住むモナコなのに結構安い。
「もっと高いと思っていたけど意外とリーズナブルだな」
「しかも、この景色。モナコ最高!」
食事を終えて、旧市街へ向かった。
Monaco-Villeと呼ばれる地区。岩山の上に広がる旧市街は、モナコの中でも歴史的な場所だ。
細い路地。石造りの建物。お土産物屋とレストラン。エズ村ほど古くはないが、それでも中世の面影を残している。
大公宮殿に向かう途中、衛兵交代式に遭遇した。
白い制服に身を包んだ衛兵たちが、隊列を組んで行進している。帽子、ベルト、靴、すべてが完璧に揃っている。指揮官の号令に合わせて、一糸乱れぬ動き。
「すごいわね」美智子が囁いた。
「訓練されてるな」
観光客が、スマートフォンやカメラで撮影している。子どもたちは目を輝かせて見ている。
行進が終わると、衛兵たちは宮殿前の衛兵所に配置された。
大公宮殿の前に来ると、一人の衛兵が直立不動で立っていた。白い制服。白い手袋。ライフルを肩に担いでいる。強い日差しの中、微動だにしない。
「写真撮ろう」
洋一と美智子は衛兵の前で記念撮影。ポーズを取っても、衛兵は瞬き一つしない。
「すごい集中力ね」
「こういう仕事も大変だな。この暑さの中」
宮殿の広場からは、港が一望できた。白いアーチの向こうに、青い海と無数のヨット。山の斜面に広がる街並み。
「きれいね」
「ああ」
広場には、カラフルな野菜が並ぶマーケットの写真が飾られていた。トマト、ズッキーニ、ピーマン。"Tomate coeur de boeuf"(牛の心臓トマト)という札。フランス産の野菜らしい。
「新鮮そうね」
「市場、見たかったな」
「また来ればいいわ」
旧市街を一周して、大聖堂を見学し、さらに港を見下ろす展望台へ。
そこから見る景色は、また格別だった。
港全体が見渡せる。整然と並ぶヨット。その数、数百隻はあるだろう。白、青、黒、様々な色の船体。背後には高層ビル群。ベージュ色の建物が、山の斜面を埋め尽くしている。
「狭い国に、よくこれだけ建てたわね」
「土地がないから、上に伸ばすしかないんだろう」
展望台を降りて、再び街を歩く。

カジノの前を通りかかると、またも高級車が停まっていた。今度は黒いロールスロイス。運転手付きらしい。後部座席のドアが開き、スーツ姿の紳士が降りてくる。
カジノの入り口には、"CASINO"の文字が金色に輝いている。緑の庇。ベルエポック様式の装飾。
「本当に映画のセットみたい」美智子が言った。
「実際、映画の舞台になってるからな」
モナコ・グランプリのコースを示す標識も見つけた。この街の道路が、年に一度、F1のサーキットになる。
「そろそろヴィルフランシュに向かおうか」洋一が時計を見た。「五時過ぎだ」
「そうね」
駐車場に戻り、駐車料金を払って、車を出した。
「モナコ、面白かったわね」美智子が言った。
「ああ。でも、住みたいとは思わないな」
「私も。なんだか、疲れる」
「観光で来るにはいいけど」
「そうね。でも、一度は見ておきたい場所だったわ」
洋一も頷いた。
高級車、豪華なヨット、カジノ、宮殿。華やかさの中に、どこか非日常的な緊張感がある。それがモナコという国の魅力であり、同時に、長居したくない理由でもあった。
二人は笑いながら、モナコを後にした。
海岸線の道を西へ。右手には地中海。左手には崖。
「次はヴィルフランシュね」
「ああ。オオスミさんとの夕食だ」
「楽しみね」
車は静かに、海岸沿いを走っていった。
To be continued…




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